経営学ってなんやねん!‐ある 京大 MBA 修了者 の経営学講座‐

 私たちは数名のMBAホルダーが中心になって活動する団体です。時々、経営学のそもそも論に突っ込む時があります。 連絡先 E-mail:ffproject2014@yahoo.co.jp

カテゴリ: 組織論

少し間が空いてしまいました。すいません。



さて、今回は「官僚制組織」というテーマで書いてみたいと思います。



官僚制とは?言葉自体は非常に有名です。「官僚」というとさらにイメージが湧き易いかもしれません。かつ、あまりよいイメージがないかもしれません。



ここでは、特定の国家公務員などではなく、広い意味での官僚制を指します。

すなわち、社会学者ウェーバー(原語はヴェーバーのほうが近いそうです)が提唱したところの、「官僚制組織」です。



それで、官僚制組織とは?ウェーバーさんは、この官僚制組織がきわめて「合理的」であるとしてこの概念を提唱しました。その特徴として、次の5つが挙げられます。



1.規則の体系によって成立する:成員は規則によって強く制限されている。逆に言うと規則のなかでは権限を制限されることはない。

2.階層的職務権限:いわゆるピラミッド型で、上に行くほど権限が強い。

3.文書主義:職務の通達・諸連絡は文書によってなされるべきである。

4.専門的訓練:専門的訓練を受けた者だけが組織に任用を受けることができ、訓練は任用後も継続される。

5.没人格性:人格的要素は極力排除される。「上の命令を聞く」のは人格によるのでなく規則によると解される。



・・・さて、ここまで来る途中で、もう「ん?」と思った方も多いでしょうか。昨今のビジネスコラムなんかで叩かれてるような要素をこれでもかと散りばめています。

直感的に「うーん」と思うのはある意味普通なのかもしれません。この概念は、のちの組織理論の叩き台として金字塔になっていますし、反対意見も続出します。ときには規則を破ることも必要では?文書主義は煩瑣すぎないか?専門性を高めるが故の弊害がないか?人格的要素こそ重要では?・・・などなど。「官僚制の逆機能」として、きれいにまとめられたものさえあります。



では官僚制という概念は「誤り」なのでしょうか?

しかし、官僚制はいまだに非常に多くの企業でも取り入れられていますし、企業に限らない多くの組織で採用されています。なぜでしょうか?そこには、純然たるメリットも存在するからです。



官僚制のもたらすメリットとは?正確性、確実性、予測可能性、情実の排除、公平性などが挙げられます。同じ業務をより効率的にこなすのには優れているのは事実なのです。



でも、例えばイノベーションを起こしたい、と思う組織には向いていないのも明らかです。あるいは、人と人とのつながりが何より重要だ、と考える人にとってはとんでもないものでしょう(没人格的であるべき、って言ってるんですから)



さてさて、要はここまで何を言いたかったか。



・批判しか受けないような概念でも、よくよく考えたり原点を紐解くと何らかのメリットが存在する。かつてはうまくいっていたことがある。

・・・批判を受けている官僚制は、ある局面ではメリットに溢れたものである。

また、人格的専横(誰かが思いのままに組織を動かして私物化している)が官僚の悪いとこ、という批判はヘンだと分かります。官僚制は没人格性を推奨していますから。という風に、やや的外れの批判も多々ありそうです。



・ある手法・方法には必ずメリットとデメリット、リスクとリターンが存在する。それは局面・環境によっても左右されるものである。

・・・価値は相対的だ、という風にまとめられるでしょうか。官僚制が強く効果を発揮する場面もあれば、逆機能;マイナスに働くこともある。これは時代、社会制度、などなど諸条件で全く左右されるので一概に良し悪しを論じることはできない。



と、いうことでした。

これは、経営においても非常に大事な考え方だと思います。このように、ちょっとずつ切り分けて、良い悪いを語れると、仕事でも少し役立つことがあるかもしれません。

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企業が社員に教育を提供するのは企業のためだと前回はお話しました。それでは次に企業は社員に何を教育すべきなのでしょうか?今回はOff-JT教育として最初に学ぶべきものを提示したいと思います。


もちろん、企業が社員に対して要求する能力は多種多様であり、また状況如何で求めるものが変わります。ですから、一般化することは難しいのですが、今回はそこを敢えて、「最初にこれを教育すべき」というものを提示します。



先に結論を言うとそれは「簿記」です。まずは社員全員に簿記を習得させてください。



言うまでもなく、企業は利益追求のために存在しています。ですから、利益をいくら稼ぎ出したかということがその企業に対する評価です。その評価指標として機能するのが財務諸表です。



もちろん、様々なステークホルダーが企業の評価指標として財務諸表を使用しています。それと同時に、その企業が企業自身を評価するにも財務諸表が使われています。ですから、財務諸表を読む能力は企業に勤める人達にとって必須のスキルと言えるでしょう。



例えるなら、財務諸表の読み方を知らずに企業活動を営むことは、点数計算の方法を知らずに麻雀をするようなものです。麻雀をしたことのある人は分かると思いますが、点数計算を知らずに参加するなんて、本当にいいカモでしかないです。点数計算を覚えることは勝負の土俵に上がるための最低限の武器です。



しかし、工場の作業員やPCに伝票入力しているだけの事務員などの単純作業をしている社員にも簿記を勉強させる必要があるのでしょうか?



この疑問に対して、僕たちはできるだけ全員に簿記を学んで欲しいと考えています。そういうと、全員が簿記を知る必要はないと反論されるでしょう。確かに企業は役割分担で成り立っています。ですから、簿記のできる人ができない人を補えばいいし、力仕事のできる人ができない人を補えばいいでしょう。



しかし、企業とは人の集合体です。ですから構成員の全員の総合力が試されている場でもあるのです。簿記を知らなくても単純作業はできます。ですが、知れば仕事の質が変わります。今自分がしている作業や判断が財務諸表のどの部分に影響しているのかを意識できるようになるのです。例えばコスト意識などは相当な意味があるのではないでしょうか。コスト削減のためにムダを出すなとやみくもに言うよりも、簿記を知ってもらった方がムダを出すことに対する意識が具体的で金銭的なものになるでしょう。



それでは、なぜ、会計一般ではなくて、簿記なのでしょうか。確かに、簿記でなくても財務諸表を知ることはできます。ですから、知識を身につけてもらえるのであれば、どのような手段でもかまわないです。ただし、教育効果を測定することを考慮しなければなりません。教育は効果が測定されて初めてマネジメントの対象になります。



幸いなことに日本には簿記や会計に関する様々な教育インフラが整備されており、その能力認定のための試験も様々なものが整備されています。ですが、簿記は財務諸表の作成方法を学ぶこともあって、簿記を知らないと会計の学習の効果が上がりにくいという側面があります。このことは、あらゆる会計学の教科書に簿記が取り上げられ、多くの紙面を割いていることからも明らかでしょう。逆に言えば、簿記が会計学習の入口として果たしている機能は大きいと考えてもいいでしょう。



また、簿記検定のような第三者機関による能力証明によって、段階的に、且つ客観的に、しかも安価に社員の能力を把握することが可能です。自前で教育体系とその効果測定方法を開発することを考えれば、既存の検定試験等を活用する方がはるかに安価なのは言うまでもありません。



 さて、ここまでの議論を整理しましょう。まず簿記を学習させる理由として、



    社員教育(Off-JT)はまず簿記を学習させるべき。

    企業は財務諸表で評価されるのだから社員は簿記を知るべき。

    簿記を知った社員の方が財務諸表に効く仕事ができる(はず)。



次に、会計ではなく、まず簿記を学習させる理由として、



    簿記は会計の入門として機能している。

    簿記は教育インフラが整っている。

    簿記は検定試験等で教育効果を段階的に且つ客観的に測定できる。

    簿記教育は比較的安価である。



最後にもう一度みなさんに訊きたいと思います。



自分の仕事が財務諸表に与える影響を意識できる社員とできない社員のどちらの方が質のいい仕事をしそうですか?


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就職活動中の大学生や新入社員は言うまでもなく、中にはベテランの社員ですら企業が社員に対して教育プログラムを用意してくれることを期待しているでしょう。それに対して多くの企業が当然のように教育プログラムを用意していることをホームページ等に掲載して対外的にアピールしています。社員教育に企業が責任を持つのが当たり前というのが当今では大勢のようです。

もちろん僕たちも社員教育は企業が責任を持つべきだと考えています。ざっと考えられるだけでも以下のような理由が思い浮かびます。

① 個別の企業に最適化されたスキルや思想はその企業でしか身につけられないから。
② 教育プログラムを期待する社員の離職率を下げるため。
③ 教育プログラムを期待する求職者に対する訴求効果。
④ 社員教育に企業が責任を持つべきという考えが大勢なので教育プログラムの有無がIRに与える影響を無視できない。
⑤ 社員を路頭に迷わせないため。

①~④は説明不要でしょう。⑤についても説明不要かと思いますが念の為に説明しておきます。数十年間もずっと同じ会社に所属しているのに新人や若手社員と同じような水準の仕事しかできない人がどこの会社にもいるものです。この数十年の間にスキルが磨かれて他社からも引く手数多の人材になってくれればいいのですが、実際には多くの人がそうはなりません。残念なことにこのような人は次の仕事が見つからないので、退職金を上乗せして早期退職を募ってもなかなか応募してきません。また、他社や子会社への出向という形でリストラしたくても受け入れ先が見つかりません。なぜなら、新人や若手と同程度の仕事しかできないからです。仕事の程度が同じなら若い人を雇いたいと思うのはどこの会社も同じでしょう。大企業であってもこのように何のスキルも磨かれずに受け入れ先のない社員がいます。本人の努力が足りなかったと言ってしまえば企業としては楽です。しかし企業の都合で企業が使いたい場所にその人を配置してきたのかもしれません。何も教育機会を与えないで企業の都合でいいように使っておきながら、使えなくなったからと言ってポイ捨てしていてはたくさんの社員が路頭に迷うことになります。リストラするにしても社員がスキルフルで次の受け入れ先があるのであれば労働組合との交渉の余地もあるでしょう。しかし、次の受け入れ先のない社員をたくさん抱えてしまうと労働組合との対立が深まって企業活動が停滞する原因になりかねません。

以上の他にも会社が社員を教育する様々な理由があるでしょう。いずれをとっても社員教育に責任を持った方が企業にとってメリットがあると言えそうです。もちろん教育を受けることができる社員にとってもメリットがあるでしょう。

しかし、社員の側が企業は教育に責任を持ってくれると期待しすぎるのは非常に危険です。なぜなら、企業が行う教育プログラムはあくまでも営利活動の一部であるからです。
企業は教育プログラムの効果を最大化するために

① 誰を教育するか
② いつ教育するか
③ どのような教育をするか
④ どうやって教育するか
⑤ どのような目的で教育するか
⑥ 何を教育するか

といったことを常に考えています。(もしあなたの会社はそんなことを考えていないというのなら、これからは考えてください。)ですから、社員が①~⑥に合致しなければいつまでも教育を受けられないことになります。また、合致してもその教育で獲得したスキルがその企業の中でしか使えないものであったり、限定的なものだと結局リストラ等の対象になった時に路頭に迷うことになります。

当たり前のことですが、忘れがちなので再度確認しておきます。会社が社員を教育するのは会社のためであって社員のためではありません。だからこそ会社は社員の教育に責任を持てるのです。

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頑張ればうまくいくのか?―個人と集団、個人と環境―


日常で、何かを達成したい。今できないことをできるようになりたい。そう思うことは、大小も実現性も様々でも、当然ながら誰しもあるのでないでしょうか。


さて、何か成したい、達成したいと思うとき、それを最も左右するのは何なのでしょうか。

あまりに漠然とした問いかもしれませんが、多くの人はきっとこう答えるのだと思います。


「とりあえず、努力することである」


ごく普通にみえるこの意見の根底には、ある前提、というか思想とすら言えるものが隠されています。

・・・さて、今回問題にしたいのは、「頑張れば、夢は叶う」のか?ということです。

少し意味はズレますが、似たようなことが、経営学でも昔から取り上げられてきました。


どうすれば企業は成功できるか?経営学は初期からこの問いに対する答えを探してきました。そして、多くの支持を得るような答えを生むこともできました。

多くの支持を得た代表的な学者に「組織は戦略に従う」で有名なチャンドラーがいます。チャンドラーはおおまかに言うと企業がどのような戦略を採り、そしていかにその戦略に沿った組織体制を構築するかが重要だ、と説きました。なるほど、もっともらしいですね。またこの理論自体は多くの実証を得ており、妥当性も高いといえます。チャンドラーの言説をまとめるとこうです。


「企業は戦略―理想への道筋―に対して相応しい組織体制を採ることで成功を収めることができる」(もっと言うと、それさえすればいいんだ、くらいの勢いでこの説を推しました)


チャンドラーはまた、戦略はいくつかの類型化が可能で、そのパターンに適した組織体制というものも考えつきました。より実践的で解り易いタイプ分けをしたのです。

しかし、妥当にみえるこの意見に対し、チャンドラーはある重要なことを無視しているのではないか?という指摘を受けます。何でしょうか?


ディマジオとパウエルという人がいました。彼らは、ある企業の調査をしていく中で、あまりにも多くの企業が当時流行していた「事業部制」を採り入れ、かつ全く機能していないことに気付くのです。

事業部制というのは、多くの企業で成功例が得られた有力な組織体制のひとつです。チャンドラーの言説に従うと、この組織体制を敷いておきながら全く機能していないというのは不思議なことに思えます。

そしてディマジオとパウエルは、調査を進める中で、この事業部制導入の原因を突き止めます。

「あるコンサルティング会社に勧められるままに、事業部制を導入した」

このような回答が多く得られたのです。

ディマジオとパウエルは色々な意味で驚愕します。そして、気付くのです。

「もしかしたら、企業は有効な戦略がどうこうとかの前に、主体的な意思決定すらしていないのではないか?」

そうして生まれたのが「新制度派組織理論」と呼ばれるものです。要約すると、


「企業が成功するかどうかは環境に左右されている。外部環境に因ってでしか、成功的な戦略も組織体制も決定できない」


というものです。


さて、言いたいこととは。


果たして、成功への「ワン・ベスト・ウェイ」は存在するでしょうか?

個体が頑張りさえすれば、成功は保証されるでしょうか。

いっぽうで、環境の支配力はすさまじいものがあります。

でも、個体はただ環境に支配されるものなのでしょうか?環境ってなんでしょうか?


・・・さて、多くの問いを投げかけましたが、

「成功にむけての個人(個体)と環境/集団」

は、現在の経営学での主要なトピックになっています。

今後もそういったことに触れていこうと思います。

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ITが発達して、と言われて10年以上は経つでしょうが、ITの発達はなお止まるところを知らないように見えます。

同時に、人の「生き方」も多様になっています。決められた時刻・場所に出勤すること、服装を揃えること、当たり前だったことは次第に当たり前でなくなっていきます。

こうなってくると、「別に、ひとりで生きていけるんじゃね?」と思ってしまいます。億劫な人付き合いを離れ、必要なことだけ身につければ「ひとりで」生きていくことも可能です。結婚しないという風潮も、こんな個人主義の表れかもしれません。

でも、どんなに周辺技術が発達し、精神の変化が起こっても、人はひとりでは生きていけません。


なぜ人はひとりでは生きていけないのでしょうか。


小学校の道徳(という授業が今もあるのか定かではないですが)で習いそうな話ですね()。色んな視点から説明できると思いますが、経営学的に述べると以下のようになるでしょうか。


人間が生活していくだけの資源調達や生産サイクルは、一人で回すには大きすぎるため、複数人で担保・役割分担し合わねばならないから。


もちろんこれも、経営学のある立ち位置からみるとこう言える、というだけなのですが。

要は、現代で生きていくに満足な生活を送るためには、社会=多数の人間が関係しあう集団下で生活することが一番合理的であるから、皆無意識にでもその選択を行っているということです。

そして、その中では今なお人が直接触れ合って、無意味とも思える習慣を共有し、一種の息苦しさを感じながらでも一緒に居ないとなされない生産行為もあります。

これは浪花節ではなくて、経営学的にも実証可能なことです。

しかし一方で、ある思想のもとでは、人は社会における束縛を受けず、個人の自由主義的に生きていくことが許されるような考え方もあります。あるいは、フリーライダー問題のように、自分だけが社会に対するコミットをさぼっても恩恵が受けることも可能です。

このように、社会下での恩恵は受けつつも、そのぶん社会に払うコストはケチりたい、という思想は往々にしてあって、これも経営学(どちらかというと経済学寄りですが)によってアプローチすることが出来ます。


このような思想は誰もが持ちがちで、あるいは持つ人に悩まされることも多いでしょう。しかし、経営学はこのような個人と組織、個人と集団、個人と組織、個人と企業という問題にも多く関わっています。その紐解き方は、一様ではありません。



あなたはどう感じたでしょうか。その感じ方を、概念と照らし合わせて経営学に触れてみてください。 

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